| (19) 生きている神様 小泉八雲に「ライブ・ゴッド」と言われた浜口梧陵は和尚の町の先覚者です。 私も通った日本一旧い高校「耐久舎・現耐久高校」や東大医学部の前身、東京医学校の創立者です。 「稲村の火」は津波に気付いて、刈り上げた稲村に火を放ち村人の命を救ったというお話です。これが安政の大津波。ラフカディオハーンの掌編で教科書に永く使われて居りました。 その後が凄い。田畑や家を無くした村人を、築堤事業に従事させたのです。一度にお金を渡せば一度に無くしてしまいます。毎日、その日働いた分を渡せば、毎日の食事が確保され、働くことで明日に希望が持てます。お陰で、立派な堤防が出来ました。耐久舎はその堤防のすぐ内側にありました。 さて最近、浜口家が東京に移ったあとも残されていた屋敷が、町に寄贈されました。明治の頃の三階建て、さりげない外観でいて見る人が見れば大変な名建築なのです。 実は前のバブルの折、オバカな町長がゼネコンの為に梧陵さんが築いてくれた堤防の前の浜を埋め立てました。コンクリートの囲いを巡らし、堤防の前に池を作った様な物です。たちまちバブルがはじけて、造成地は売れなくなりました。取り付け道路さえまともにありません。(笑) そこでどうしたと思いますか? 庁舎を建てたのです。ホール兼用の体育館も。(笑)地震が来たら、たちまち液状化現象で池になる場所です。その時は梧陵さんの堤防を越えて孤立した役場を救いに行かねばなりません(笑) 浜口家の屋敷を修復保存するに当って、何か有効利用する手はないかと言うことで、それなら津波記念館にしようと言うことになり、改めて付近の防災マップを作りました。 それで判ってきたことは、何と、築かれた堤防によって、浜口家の家屋敷はもとより、財産が上手く守られ、言葉は悪いですが、貧民の集落などは上手く流れる様に出来ているではないかと・・・(笑)100年経ってやっと気がついた。 ここです。先を見る目の有無は。和尚が国から8億円の予算を貰って来て高齢者施設を建てようとしたとき、反対派の代議士と親戚だからと言う理由で、とうとう建てさせなかった町長なんです(笑)まあ、恨んでもおりませんが。 湯浅千軒、広千軒と言いまして、湯浅湾を囲んだ村落に沢山の醤油や味噌の蔵元が軒を並べ、江戸への廻船が蜜柑や醤油・味噌を江戸へ運んでおりました。浜口家の醤油はどちらかと言えばメジャーなブランドではありませんでしたが、いち早く大消費地の江戸に近く、気候条件の似た房総に蔵を移しました。 その後の発展は目を見張るばかり、ヤマサ、ヒゲタ、分家筋キッコーマンのブランドが全国を覆い、威勢を誇っていた地元の蔵はすっかり寂れてしまいました。 世界の三大調味料と言われるのは、醤油に東南アジアの魚醤、そしてカレー粉ですが、醤油は、今ではアメリカを始め世界中に工場をもち、世界の食卓の半分に進出しています。 もっと凄いエピソードは、江戸と紀州を駆け回っていた事業家が、明治維新の5年間、全くなりを潜めています。その間、勝海舟のスポンサーをしていたらしいのです。浜口家には勝海舟の書いた物が沢山残されて居ます。きっとその一方で官軍方にも人脈を持っていたに違いありません。西郷さんの物までちゃんとありますから・・(笑) 最後はアメリカで客死しましたが、おそらくその目は世界を見ていたに違いありません。
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